急性リンパ性白血病とサヨナラしたい‼

PH陽性ALL白血病サバイバー。子供3人の主婦のブログ

MENU

【心の変化】白血病治療から逃げたのは私だけではなかった!!「運命のブログ記事」



 本サイトはプロモーションが含まれています


f:id:gonengomogenki:20200202115536j:plain

 

私の病名はPH陽性急性リンパ性白血病です。

この記事は2018年3月の話です。

 

2017年8月に悪性リンパ腫と診断され治療を続けてきた私は、同年11月にPH陽性急性リンパ性白血病に診断が変わりました。

 

前回の記事はこちらです👇  

gonengomogenki.hatenablog.com

スポンサーリンク

 

もう引き返せない。抗癌剤治療をしない白血病患者 

 

白血球低下の6日間の入院期間で病院の個室で一人だけの時間を過ごし、今までの自分の気持ちや行動を客観的に眺められるようになりました。

 

f:id:gonengomogenki:20190831104114j:image

 

血液内科病棟で入院していた頃と違って、消化器病棟の看護士さん達に対しては穏やかな心で過ごせました。 

 

血液内科病棟では周りの患者さんが治療に対して前向きに進んでいる中で、自分だけが後ろ向きである環境が私は怖かったんだ。

 

だから自分自身を責める心が24時間離れなかった。

 

今回の個室での入院では誰とも比べる必要もなく穏やかに過ごせたのです。

個室料は高く主人に申し訳ないと思いましたが、なんだか少し自分を取り戻せたのです。

 

この入院の後、それまで酷かった頭痛や肩凝り等の症状がなくなってきました。

2月7日からスプリセルだけでなく他の薬も全て休止していたのです。

薬ゼロの状態はこんなに快適

身体が軽くなった気がして、同時に心も軽くなってきたのです。

 

外の気温も暖かくなってきて家族で出かける機会も増え、股関節の違和感はありましたが、かなり歩けるようになっていました。

f:id:gonengomogenki:20200825165337j:plain

がんセンターの採血&診察

退院後の診察は1週間後・10日後・6日後と進み、入院中から白血球は下がり続け、ようやく基準値に入りました。

 

f:id:gonengomogenki:20200825165823j:plain

 

この採血結果から白血球が下がったのが完全にスプリセルの影響という事がわかりました。

 

3月14日の診察で主治医は

「今日からスプリセルをまた処方できるけどどうする?」

 

「飲みません…」

私は即答しました。

 

またスプリセルを再開して同じように白血球が下がるのは目に見えていたし、薬を飲んでいない今は、以前の私より元気なのです。

 

「それから先生の診察も今日で終わりにします」

 

ここはがんセンターなので、「抗癌剤」治療をしない患者は受診できないのです。

 

経口の分子標的薬であるスプリセルも止め、入院して抗癌剤治療をする気がないとなると、がんセンターの主治医に診てもらう理由がなくなったのです。

 

これは、2月の白血球が低下し消化器病棟に入院している時に看護士さんに言われました。

これからこの病院で抗癌剤治療をできないなら、緩和ケアの病院で診てもらう事になると。

 

私から診察を今日で終わりにする事を告げると、主治医は一瞬驚いて

 

「まだ40代の○○さんをこのような形でしか送る事ができないのは残念でならない。

診察はできなくても、また顔だけでも見せに来てほしい。

どうかご家族と1日1日を大切にお過ごし下さい」

 

と私の手をとり気持ちを込めて言ってくれました。

 

私が診察室を出ていくまで

「風邪引きなや」

とか何か言葉をかけてくれました。

 

2017年8月末からお世話になりいろいろと思う事はあったけど、この先生が主治医で良かったと診察室を出てから涙が溢れてきました。

スポンサーリンク

 

微妙な心の変化 

がんセンターでの診察は終わり、これからは普通に毎日をすごし白血病細胞が暴れ出してきたら、月に1度かかっている緩和ケアの病院で人生の幕をとじるという流れが出来ました。

 

平日と休日ではリズムが違いましたが、スーパーに買い物に行ったりレジャーに出掛けたり、1泊2日の温泉に行ったり♨

 

赤の他人から私達家族を見ると、ごく普通の家族連れに見えた事でしょう。

 

だけど、日中外に出かけている時や家族で過ごしている時は大丈夫なのですが、夜寝る前はメンタルクリニックで処方された安定剤を飲んでも、「死の恐怖」が襲ってきました。

 

また、それと同時に

 

このまま何もせずに死んでしまっていいのか

このまま私が死んだら子供達は一生この記憶が残るだろうな

 

主人は1人で仕事も子育てもしなければならないプレッシャーは相当大変だな

まだまだ母親は必要な年齢…

私はやっぱり間違った選択をしてしまった

 

と自分を責め苦しみました。

そうかと思えばすぐに

 

もう抗癌剤治療は私にはできない

また1からクールをこなし移植に向けるなんて私にはできない

ややこしい患者を引き受けてくれる病院もない

 

このような否定の考えで頭がいっぱいになりました。

 

それに、いつどんな形で白血病細胞が暴れだすかはわかりません。

 

実際に2017年の8月に即日入院してから、1度も採血で白血球の値が何万とかになった事がありません。

 

大抵の場合、白血病は血液検査の結果でWBCの値が異常に上がることで見つかるケースが多いと思います。

 

私の場合、股関節の病的骨折から長い時間をかけて白血病と診断されたので、今後も同じような経過をたどるかも知れません。

 

gonengomogenki.hatenablog.com

 

同じように股関節がまた痛みだしたら人生の終わりが来たと覚悟する時なのかも知れません。

 

神様しか先の事はわからないのだ

 

そう自分に言い聞かせて毎日を過ごしました。

人生を変えてくれたブログ

この頃、頭痛もスッカリ治りスマホを見れるようになったので、他の方々の闘病ブログを毎日少しずつ読んでいました。

 

オーシャンブリッジ高山さんのブログ

ひろまささんのブログ

しちゃんさんのブログ

 

検索すると白血病と闘っているたくさんの方々のブログがありました。

 

皆さん過酷な状況でも後ろを向かず移植を乗り越えて凄いなと思い、私は何でこんな人間なんだろうと読みながら自分を責めていました。

 

そんな中、私にとって衝撃的なブログを見つけました。

 

逃げ腰弱気な逃病日記〜2児母の白血病〜

 

アメブロで書かれているyoshimanamamaさんという方のブログですが、なんと白血病で治療中に注射針を抜き病院を脱走されたのです。

その後、転院して移植をされ退院して家で過ごされていました。

 

私はこのブログを一番初めのページから読破しました。

この方のブログを読んで確実に私の中に

 

「白血病治療から逃げたのは私だけじゃなかったんだ…もしかしたら私も…」

 

そんな思いが湧いてきました。

季節は5月のゴールデンウィークを過ぎていました。

 

それから何度も

 

いや、やっぱり無理だ…病院がない

いや、頑張れる…病院なんてたくさんある

 

このように毎日の中で思いが交差し、yoshimanamamaさんのブログの脱走のページを何度も読みました。

※今から思えばこのブログで私の人生は変わりました。

yoshimanamamaさんありがとうございます!

スポンサーリンク

 

採血をしに近くのクリニックへ

2018年5月が終わろうとしていました。

 

たくさん歩いた後は股関節の違和感や痛みがありましたが、骨折の痛みではないな~と自分で分析していました。

 

明日は股関節の生検術をしてくれたがんセンターの整形外科のレントゲンと診察の予約が入っていたのです。

 

整形で採血はしないし血液内科の診察を止めた今、私は整形の先生に一体何を診てもらうんだ?!

 

そんな事を考えていると、今は血液の値がどんな状態になっているのか知りたくなってきました。

 

そして近くのクリニックへ行きました。

クリニックの診察室で初対面の先生に今までの流れを話し、採血結果を待つこと数分。

 

白血球の値が基準値を遥かに超えていました

 

私、ホンマに白血病だったんだ…

 

これまで何度血液検査をしてもWBCの低下はあったものの、メジャーである白血病の疑いを表す高値を見たことがなかったのです。

 

この時初めて白血球の値が基準値を超えている採血結果に妙に納得がいきました。

 

この表現はおかしいかも知れませんが、この高値の数値が2017年の8月に出ていたら、悪性リンパ腫と診断されずに初めから白血病と診断されたのに...

 

私、運が悪かったな...

 

そのクリニックの先生に

 

「もう一度考える時が来たのではないですか」

 

と優しく言われました。

もう一度白血病の治療を...

クリニックから帰宅して夕食の準備をボンヤリしながら進めていたら、部活を終えた娘が帰ってきました。

 

キッチンで泣きながら娘を抱き締めたのを今でも覚えています。

 

まだ小学2年生と4年生だった息子達は母親が治療を止めて帰ってきている事を理解はしていたけど、見た目は元気そうに過ごしていたので

 

この先お母さんはどうなるか?

 

なんて現実的ではなかったと思います。

 

だけど中学1年だった娘は母親がどんな状況でこの先どうなるかを全て理解していたと思います。

だから私は無言で抱き締めるのが精一杯でした。

 

間もなく主人が仕事から帰ってきて話し合い、明日の整形の診察で他の血液内科のある病院を紹介してもらおうとなりました。

 

 

続きの記事はこちらです👇  

gonengomogenki.hatenablog.com

 

 

プライバシーポリシー・お問い合わせ