私の病名はPH陽性急性リンパ性白血病です。
2017年8月に悪性リンパ腫と診断され治療を続けてきた私は、同年11月にPH陽性急性リンパ性白血病に診断が変わりました。
それがきっかけで病院への不信感や抗癌剤の副作用で、一度は治療に背を向け入院中の病院から家に帰り死の決意をしました。
その後、白血病細胞が暴れ出してしまい、土壇場でもう一度治療をする気になりました。
このブログはその記録を綴っています。
前回の記事はこちらです👇
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- 今後私はどうしたいのか
- 「Hyper-CVAD/MA療法」(ハイパーシーバッド・エムエー療法)
- オンコビンの痺れ
- 入院中に自由になれる貴重な場所
- 2度目の骨髄バンク登録
- 血縁者間移植のみのS病院とお別れ?
- 転院先の外来受診
今後私はどうしたいのか
スプリセルによる寛解導入療法で18000超えの白血球が無事に下がり、今後私はどうしたいのかをS病院の女性の主治医と話しました。
S病院の主治医が私に出した選択肢は3つ
- 抗癌剤治療8クール
- 抗癌剤治療後同種移植
- スプリセルの内服のみを続ける
書類には主治医の手書きのキレイな文字で、3つの選択肢とそれを選んだ場合の副作用などが書かれていました。
「今はまだ移植の事まで考えられないけど、本当に自分が治療に耐えられるか1クールを終えてから決めたいです」
そう返事をしました。
ただ、やはりスプリセルを続けて服用していると、以前のように白血球の値が下がり過ぎました。
基準値は3.3以上ですが私の場合2.3~1.4と低く、このままでは
抗癌剤による治療が開始できなくて、何もしない状態がしばらく続きました。
痺れを切らした主治医は、最終的には白血球を上げる注射で何とかなるので、遂に1クール目がスタートしました。
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「Hyper-CVAD/MA療法」(ハイパーシーバッド・エムエー療法)
抗癌剤治療の名前は「Hyper-CVAD/MA療法」です。
私の場合、Hyper-CVADに似た治療は昨年の11月にがんセンターで行ったので、今回はMA療法からスタートしました。
メソトレキセート・キロサイド・アルケランという抗癌剤です。
初めて体に入れる薬剤なので怖かったですが、吐き気や浮腫以外の副作用はなく3日間の投与が無事に終わりました。
24時間の尿の計測はかなり面倒でしたが、夜中に点滴棒を連れてお手洗いで鉢合わせしたのをキッカケに、何故か同室の74才の患者さんと仲良くなりました。
それからというもの日中はいろんな話をしたり、ロビーで他の患者さんを交えて話したりと入院生活で笑ってる私がいたのです。
その後、このS病院に転院してきて初めての髄注がありました。
がんセンターで副作用が出てトラウマになってしまった経緯を主治医に話しました。
「ゆっくり薬剤入れるから何かあったらすぐに言って」
主治医はがんセンターで初めて行った時の、3倍くらいの時間をかけて注入してくれました。
両足に炭酸が広がるような痺れがしばらく続きましたが、部屋に戻る頃には消えていました。
無事に髄注が終わり何だか涙が出てきました。
この調子なら2クール目も頑張れそう...
入院生活で同室の方と笑ったり、主治医がマルクや髄注の怖さを和らげてくれたり、何より看護士さんが温かく面白い方が多かったのです。
転院前のがんセンターの二重扉の中の、地獄のような病棟での治療とは対称的でした。
その後も以前の私とはまるで別人のように、このS病院での入院生活を過ごしました。そして、主治医には2クール目も頑張れそうですと伝えました。
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オンコビンの痺れ
2クール目はHyper-CVAD/MA療法のHyper-CVADです。
がんセンターで病名が悪性リンパ腫だった頃から、オンコビンの抗癌剤は何度も経験しています。
それからもずっと足の痺れはしっかりと残っていました。
更にこの痺れがある状態からオンコビンを入れると思うと恐ろしい限りでした。
S病院の主治医に
「オンコビンが耐えられそうにない」
そのように相談すると変わりの薬剤にしてくれました。
引用元 日経メディカル処方薬事典
フィルデシンはオンコビンよりも痺れがマシという報告があるそうです。
私はその時はオンコビンじゃなければいいと思ったのですが、結局フィルデシンもオンコビンのように普通に痺れがひどくなりました。
更に全身の筋肉が固まったような筋肉の痛みがありました。
また髄注の後に、1週間くらい頭を起こしたら激しく痛む頭痛や嘔吐(日に3回くらい)等々、1クール目と違い一気に副作用が襲ってきました。
それでも治療自体は順調に進み、輸血や白血球を上げる注射をしながら血球が回復するのを待ちました。
入院中に自由になれる貴重な場所
私はS病院では身体は辛かったけど気持ちはヘコタレませんでした。
何故ならこの病院には庭園があるのですが、マスクをしていたら自由に行っていいよと主治医はOKを出してくれていました。
地下1階のコンビニもどき(開店時間が短い)にも自由に出入りOKの許可がありました。
これは、私の中では前病院のがんセンターとの大きな違いでした。
がんセンターの血液内科病棟では治療が始まると、絶対に病棟の外には行けませんでした。
つまり、3週間ほどは病棟の外に出られないのです。
きっと私はそういった環境も合わなかったのだと思います。
それに引き換えS病院には治療が辛くても気分転換できる場所がある🎵
私は毎日のように庭園に行きました。
子供達との面会も庭園や1階のロビーで自由にできました。
やっぱり入院中とはいえ、外の空気を吸うのって大事なんだと思います(*^^*)
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2度目の骨髄バンク登録
2クール目の白血球の上昇を待ってる頃、世間は盆休みでした。
1クール・2クールと終えて主治医に今の気持ちを伝えました。
「先生、このまま8クール続けても私の場合は再発するの目にみえてるから、やっぱり移植します」
S病院の主治医は優しい顔で
「みっふぃかかさんなら大丈夫!きっと乗り越えられるよ!」
と私の決意を応援してくれました。
私の場合、がんセンターの2017年11月の治療で寛解しているので、1度治療をやめて白血病細胞が末梢血に現れた5月は再発になるのです。
PH陽性ALLで「再発」の場合、やはり移植しか完治の道はありません。
ここまで来たらもう前進するしかない!!
がんセンターでの1度目の骨髄バンク登録の情報は抹消されていたので、2度目の骨髄バンク登録をお願いしました。
血縁者間移植のみのS病院とお別れ?
2018年5月からお世話になり、寛解導入療法とHyper-CVAD/MA療法の1・2クールを行ったこのS病院では、血縁者間移植しかできません。
私は実の姉がいますが一致しなかった為、骨髄バンクや臍帯血バンクを利用しての移植になります。
そうなるとS病院から他の病院に転院になります。
主治医はバンクの登録と共に転院先の病院のリストを渡してくれ、私は家から通いやすく血液内科がしっかりしてそうな病院を決めました。
転院先の病院が移植だけでなく3クール目から受け入れてくれるなら、すぐに転院になります。
そうなると気持ちが何だかとても慌ただしくなりました。
2回目となる股関節のPET- CT検査の予約日も決まりました。
また、がんセンターで生検術をした左足がこの頃に痛み出しました。
骨折の痛みではないので松葉杖は必要ないと思い、病院の売店で医療用の杖を見つけましたが、何となく高齢の方が持つような感じで嫌でした。
その事をリハビリの先生に相談すると、登山用などの杖でも付いた方がいいとモンベルの杖を購入して付加がかからないように歩いていました。
そして転院先の外来予約日が決まり、S病院に入院中のまま外出という形で転院先の病院に向かいました。
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転院先の外来受診
転院先の病院に到着し初診の受付を済ませ待つこと1時間、ようやく診察室に呼ばれました。
私の簡単な病歴は既にS病院の主治医がこちらの病院に送ってくれていたので話も早く、
「まぁこの状況なら移植した方がええわな。
どうする?
3クール目からうちでやる?
移植の前から入院した方が病棟の看護士さんにも馴れるよな?」
目の前の先生は大阪弁で明るく、緊張して診察にきた私はとても和みました。
S病院にまだ入院している旨を伝えると、その場でS病院の主治医に電話して
「みっふぃかかさん、今診察中なんですけど3クール目からこちらで引き受けようかと...
あっ、そうですか。
じゃあ9月3日に入院予定で。
PET-CT?
じゃあ、そちらを退院したら受けてもらって結果はこちらに受診先から送付して下さい」
とんとん拍子に話が進み電話を切ると
「みっふぃかかさん、今の話聞こえてたよね?
次のクールからうちに来てもらうから、S病院退院したらPET-CT撮ってきてな。
後、今日ここでも採血して帰ってくれる?
まあ、そんな嫌な顔せんと(笑)
もしかして怖がり?(笑)
こっち入院してもマルクとかもまたやってもらわなあかんで(^^;)」
採血今朝したとこなのに嫌やな、、、
と表情に出ていたみたいです💦
採血を終えてタクシーでS病院に戻りました。
付き添ってもらった母と
「面白そうな先生やな~
大阪のおっちゃんって感じやわ」
と話ながら(^.^)
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