私の病名はPH陽性急性リンパ性白血病です。
この記事は2017年11月の話です。
これまで悪性リンパ腫と診断されて治療を進めてきた私が、白血病に診断が変わり抗癌剤治療がスタートした時の話です。
白血病と診断されるまでの記事はこちらです👇
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オンコビンの副作用の痺れが辛い
白血病に診断が変わり翌日から早速治療が始まり、今までとは比べ物にならないくらいの内服薬が処方されました。
スプリセルやプレドニン、数種類の抗生剤、胃薬等々、それだけでお腹がいっぱいになるのでは?と思う量でした。
抗癌剤の療法の正式名は忘れてしまいましたが、初めの3日くらい数種類の薬剤と1週間おきにオンコビンを3回入れる治療でした。
オンコビンによる手足の痺れは既に悪性リンパ腫のR -chop療法の時からあり、この頃は指先が水に触れると痛いと感じるまでひどくなっていました。
白血病治療の1クール目なのにこんなに痺れがあり松葉杖を片方着いて歩き、整形の先生には
「診断が変わったなら、骨の経過もまた3ヶ月くらい経たないとわからない」
みたいに言われて悲しくなりました。
ベッドから移動したい時に、点滴棒と松葉杖の両方を持つ現実に耐えられませんでした。
整形病棟の時からお世話になっていたリハビリの先生に
松葉杖を使わないで入院生活を送りたい
と相談しました。
股関節の痛みが出たらすぐに松葉杖を使う事を条件に、整形の先生からも許可を頂き少し気持ちがラクになりました。
移植したら死ぬだろう
そんな中、初めての髄注がありました。
脊椎からビクーンと衝動が走るような感覚が何十分も続く副作用が出て、緊急でMRを撮りました。
幸い神経に異常はなかったですが完全にトラウマになりました。
また、オンコビンによる痺れが遂に足の指先まできたり、吐き気はあまりなかったものの、頭痛や肩凝りで目を開けておく事が辛かったり。
8月から前向きに頑張ってきたのにまるで崖から突き落とされた気分だ。
この左足だっていつ完治するかわからない...
私これからどうなるんだろう!?
2クール目なんてできそうにない
移植したらきっと死ぬだろう
そう考える自分がいました。
その間、主人が仕事帰りに寄ってくれたり母がしょっちゅう来てくれたり、友達が来てくれたりしたのですが、心配してくれる人達の前で本音は言えませんでした。
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家族への思い
当時、朝から仕事に行き帰ってきたら子供達の食事を用意し毎日忙しい主人には、私の病院にはあまり来なくていいからと伝えていました。
治療の辛さや先の見えない不安を語り合っても何も改善されないし、それなら鍵を自分達で開けて主人の帰りを待つ子供達のところへ1分でも早く帰ってあげてと思っていました。
8月の即日入院からずっと気を休める事なく走り続けてきて、今主人が倒れたらこの家族は終わりだと。
70歳を越えている私の母に対しては、結婚して子供がいる私の世話をしてもらうのが申し訳なくて、だけど一番治療の辛さを打ち明けていました。
子供達に対しては、「こんなお母さんになってごめんね」と自分をいつも責めていました。
血液内科病棟は小学生は入れないのですが、看護士長が配慮してくれて週末に一度会えていました。
小学2年生と4年生の息子が2人と中学1年生の娘。
普通、母親なら週1で子供に会えるとなると嬉しいと思う。
だけど、私は辛かった。
精一杯、大丈夫そうなフリをするのが辛かった。
歩く練習と死神
そんな中、抗癌剤を入れ終わると点滴棒をずっと持つわけではないので、約3ヶ月半ぶりに2本の足で歩く練習をはじめました。
長期間体重をかけていなかった左足は、歩き方を忘れていました。
病棟の端の方で一歩ずつゆっくり練習をしました。
この歩く練習が私の中で唯一平常心を保てる時間でした。
普通に歩けるようになりたい!
だけど、この足の痺れと股関節の違和感をカバーしながら歩くって相当気力を使う。
何も考えず歩く事だけに意識を向けよう。
頑張ろう。
1週間くらい続けるとゆっくりですが、見た目は普通に歩けるようになってきました。
転倒しないように一歩ずつ。
だけど、夜の消灯時間になると痺れや不安が押し寄せてきて、目をつぶったら死神が出てくるようになりました。
安定剤や睡眠薬が効かず死神との闘いの辛い日々
死神との闘いは毎晩訪れ、心療内科から安定剤や睡眠薬を処方されました。
それでも眠れるのは24時間の中で1~2時間、昼寝したくても病棟が騒がしくて眠れない。
薬を変えても眠れない。
脳が24時間起きたまま。
そんな日々が続きました。
毎日ずっとベッドで落ち込んでる訳でなく、たまには他の患者さんと挨拶したり、少し話したり、食事や体重測定、シャワーも行っていました。
だから、移植した方や移植したけど再発した方、移植に向けて治療を頑張ってる方などの情報が嫌でも入り、自分だけ違う方向を向いて治療に消極的になっている状況がとても辛かった。
そんな中、血球が回復し一時退院する事になりましたが、恐らく家に帰っても家族の前で笑顔で居れる自信も、子供達にご飯を作ろうと思う気力もない。
そんな母親なら家に帰っても仕方がないと思い、実家の母の所に1週間お世話になりました。
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白血病の治療はもう嫌だという私の本音
母はもちろん移植して元気になってほしいと願っています。
それを表に出さず1週間、食事を作ってくれて私の辛さを全部聞いてくれました。
もう次の治療はしたくない。
母にそう打ち明けました。
その先を想像して母は泣いていましたが、しばらく時間が経つと他の話をしたり、テレビを見たりして何とか今の私を変えようとしていました。
病院だから眠れないと思っていた不眠は全く改善されず、実家でも眠る事が出来ず死神は出てきました。
そして2クール目の入院日はすぐにやってきて、次の日から治療が始まるスケジュールでしたが、思いきって今の心境を主治医や担当医に伝えました。
「毎日眠れない。
今後も治療で痺れが酷くなり、また髄注で怖い目にあい、足もどうなるかわからず全く治療に前向きになれない。
家族の事も考えられない。2クール目はできない」
「とてもじゃないけど移植までたどり着く気がしない。それなら治療を続ける事に意味がない気がする」
「病院で死ぬかも知れないなら最後に家に帰ってお母さんとしての仕事をしたい」
このような事を数日かけて伝えました。
主治医は
「私の方からご主人とお子さんも交えてもう一度治療や移植の事を説明させてもらう」
と家族への説明も数日後にしてくれました。
一時退院前のマルクで完全寛解に達しているし、スプリセルを服用していれば短期間であれば治療を延ばしても大丈夫との事。
主治医が傲慢な医者じゃなくて良かった。
医者の性格によっては無理矢理2クール目に突入させられる可能性もあったのです。
そして最終的に
「今回は年末年始も挟むので一旦家に帰ってリフレッシュしてから、年始に2クール目をスタートさせましょう」
そう提案されました。
ちょうどクリスマスの日に退院する事になりました。
それから、この数日の入院中に何と骨髄バンクのドナー候補の一人が検査を受けてくれたとコーディネーターから説明されました。
正直、嬉しくも何ともなかったです。
私には遠い遠い話のようでした。
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